サダム・フセインが絞首刑になりましたね。
その罪状は「イラク人民を殺した”人道に対する罪”」ということになるようです。
東京裁判なんかで初めて用いられた戦争犯罪への罪状です。同じく戦争犯罪としては、”平和に対する罪”というものがありますが、まぁ簡単に述べるなら
平和に対する罪=宣戦布告なんかして戦争を起こしたという罪状
人道に対する罪=大量殺戮、奴隷化など非人道的行為そのものへの罪状
なんだそうですけど、まぁもっと平たく言うなら「勝者が敗者を合法的に裁くための罪状」ということになるのでしょう。世界のパワーバランスの上で初めて発生する罪状です。ある意味、「勝てば官軍」という言葉を最も小難しく法制化したものだと言ってもいいと思います。
実際にはサダム・フセインは、「完全に悪の存在」ではありませんでした。
彼に反対する存在への苛烈極まる弾圧、これは確かにあった事実でしょう。同時に、宗教に拠らない、現実的な国策により、イラクが安定し続けていたことも事実です。
宗教に拠らない、と書きました。
サダム・フセインは、イスラム圏において日常的になっていた慣習その他を「そのまま受け入れる」ことをせず、イラクを近代的に国家として発展させるために、教育や施設の拡充を実行しました。時折「イスラム世界の法」は軽々と国家の法律を超えてしまうことがあり、例えば「名誉の殺人」などという状態も容認されてしまう状態の中で、確かに彼は国家の法律を上に据えようとし、結果として宗教派閥などの弾圧を行うことになったのです。
まぁ、結局弾圧しちゃえばそれは「等しく殺人」と私は思うのですが。
さておき、宗教に拠らないということは、結構特殊なことです。
宗教は個人にとって「心のより所」足りうるものですが、集団にとっては「人類史上類を見ない統率手段」だと私は思っています。人を疑問に思わせることなく、まとめあげるのに最適なのです。
例えば、現在の日本は非常に宗教にルーズですが、そんな日本でも大昔から仏教を盾に国を統一したりしようとしたり、天皇を神にしちゃったりする歴史があるわけで、政治にとって宗教は本当に便利なものなのだと思います。
その手段の威力がわかっているからこそ、織田信長は寺を焼き討ちするし徳川家はキリシタンを弾圧するし、一方でアレだけ猥褻な情報を流されても山崎拓は当選しちゃったり(おっと詳細には語れないな)、我をあがめよとばかりに北朝鮮の将軍様はホールインワンを11も出しちゃうわけです。
フセインも、イスラムの世界に頼らない代わりに自らを崇拝させるようにしむけていたようですが、あれだけの大宗教が存在する世界で、それに拠らない政策というのは、さぞかしそりゃ力技も要るよね、と思わずにはいられません。
フセインについて、死刑になった後、色々と論争が起こっているようです。
その評価を定めるのはきっと遠い後世の歴史家が行うのでしょうが、恐らく現時点でも言えること、それは、フセインはアメリカが必要としたから育ち、アメリカが不要になったから死んだ。そのことかもしれませんね。
今後のイラクは一体どうなるのでしょう。
つまらん文章でした。
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